もしオレがこの世から消えたとして何が変わるのだろう?
日々TVから垂れ流される事件のニュースを見ても、誰かが死んだというだけで何もこの世は変わらない。
オレは大学で建築を学んで、自由な空間設計、人の生活を豊かにさせるような建築設計を目指していた。
そして大手ハウスメーカーに入社した。
一人でも多くの住宅のオーナーに理想的な住空間を提供したくて。
しかし、その夢は音を立てて崩れていく。
建築のプロの世界というのは、そういう素人くさいお絵かきの延長にあるものではなく、金の世界だったのである。
プロ=金。金金金!それが現実。
住宅産業というのは車を売るのとさほど変わらない、まさにシンプルにシステマチックなセールスに過ぎなかったのだ。
そういう世界では、自分らしい理想なんかを追求するなんて無意味だし、そんなことをしている時間も無い。
まさに、金を生む機関車のボディを支えるねじの一つになって、外れないように必死にしがみついてるしか出来ないのだ。
ある時、クライアント(施主)との設計打ち合わせのときに奥様が、「ねえ、設計士さーん。アメリカ映画に出てくるような、L字型のキッチンにずっと憧れてたの。」とおっしゃる。
オレは信者のような笑顔で「…奥様のその夢、私がかなえましょう!」…。オレは一体何なんだ?
ただカタログ見せて「どれにします?」で済むでしょ?オレって必要?
奥様がキッチンメーカーのカタログ見て、「これにしよう!」と選んで注文するだけで済むのに、もっともらしく設計士とか言って白々しく語る。
オレはただ、会社に言われるとおりにお客様に案内するだけのスピーカーだ。
そんなある日、オレは会社の同僚の女の家に昼の食事に誘われた。
同僚の住むアパートは、いわゆる1DKと言って、リビング兼寝室とダイニングキッチン、それと風呂トイレ別の一人暮らしにはゆったりしたつくりだった。
その頃俺にはカノジョがいたのだけれど仕事の休みが合わず、わりとすれ違っていた。
そんなところに同僚の女からの誘いに、こりゃー昼飯食って、その後はグフフ…
同僚がカレーを作ってる間、ダイニングテーブルに座って談笑しながら待つオレのポケットでケータイが振動した。
背面のモニターを見る。本カノからだ。
ちっ!女ってやつはこういう勘が鋭いんだろうな。
とりあえずオレは無言で立ち上がり、キッチンから続く、ドアの無い洗面所からトイレに入ってケータイをチェックした。
”おはよー。ってまだ寝てるのかな?もうこっちは昼休みだよー。夕べは飲み会で遅かったんだよね?それで今夜のことなんだけど…”
うっとおしいので寝てることにして、今は無視することにした。
とりあえず、小便をして出るていをよそおうために、便座を上げて水を流すことにした。おや?
便座を上げようと屈んだところ、便器の排水の出口の方にトイレットペーパー?が引っかかってる。
ん?と更によく見ると、かなり黄色い感じの硬そうなウンコも一緒に引っかかってる。
一瞬興ざめしたけど、まあ、人間なんだし。ウンコくらいするわな。
セックスする前にウンコ見ちゃったのもなんだけど、これぐらいね。
逆にこれをネタにもっとすごいことなんかもね。ゆくゆくはね。
ということで、そのウンコごと流しちゃえ!と、レバーを引いた。
ズシャー!と水が流れてギョッとした。
ウンコが引っかかってるからか、トイレが詰まって一気に水位が上昇してきた!
そして流水の勢いで詰まっていたウンコが、まるでファインディング・ニモと一緒に旅をしたあの頭の悪い青い魚が、テンション上がった時の泳ぎ方みたいな激しい動きで水中を泳ぎまわる。
でかい。ギャーッ!と心の中では叫びたかったが、意外にも声は出ず、むしろ息を呑んでウンコが泳ぐさまを見つめていた。
しかしここで大変な事態になった!便座を上げてしまったために、勢いでニモの旅友が地上に出てこようとしてるのだ。
今ほど便座を上げたことを後悔することは決して無かった。危ない!
これは浮気をしようとしていたオレへの天罰か?
ニモの旅友はまるでスローモーションのようにあふれる滝に身を任せ、音も無く床に落ちた。
おれは握り潰しそうにしてたケータイを開き、本カノのメールに返信を打つ。
”大変なことになった!”
いや。これは送ってはならない!冷静になれ!
危うく送信ボタンを押しそうになったのを寸止めし、ケータイをポケットにしまう。
驚いたことにニモの旅友は、床に流れ出た水に押されてトイレのドアの方に流れて行っている。
トイレのドアを見ると下に5センチぐらいの隙間がある。
まずい。このまままではカレーを作っている同僚のいるキッチンまで、ニモの旅友がたどり着いてしまうのも時間の問題だ。
カレーを作ってる同僚の目の前に本物のカレーが…
何とか食い止めなければと、トイレットペーパーを両手で、まるでハムスターの回転車のように巻き出して、あいつをつかみ取ろうと思った。
しかし高速回転する手を見ながら冷静になって考えると、最終的にニモの旅友が同僚の前に転がり落ちたとして、同僚はあれを自分のウンコだと思ってくれるだろうか?
全身からドッと嫌な汗が吹き出る。これは人生が終わるかもしれない!
トイレットペーパーを全部手に巻きつけてドアの下を見ると、ニモの旅友は体のほとんどを外界にさらけ出していた。
オレはそれを茫然と見送る。足元の水がスリッパに染み込んできてる。
アレを見た同僚は明日会社で、俺のことを何とウワサするだろう?バナナマンか?メガロドンのカレー味か?
しかしふと便器に目をやると水位はフツーに下がってきていて、もはや後押しする水の供給が無くなっていた。
もしや!まだキッチンまで到達してないのでは?
俺はすばやい動きで、しかし決して音を立てることなくトイレットペーパーを巻きつけた手でドアを開ける。
ニモの旅友は何と、洗面所とキッチンを隔てる敷居の1センチ程度の段差に引っかかって、身を横たえていた。
水もそれでさえぎられていた。
何と素晴らしい!もしも洗面所で水があふれることがあっても、キッチンの方には水が行かないように段差をつけているのだ。
なんという存在感。いや、”感”と呼ぶにはおこがましい。全ての不浄をせき止める絶対的な存在。
オレもそんな存在になりたい。存在するだけで人の役に立てる、洗面所の敷居のような存在に!
オレは忍者のような動きでニモの旅友をつかむと便所に戻り、憎しみを込めて体を二つにちぎって便器の中に捨てた。
手に巻きつき残っているトイレットペーパーも投げ込み、便座を下ろして水を流す。
ニモの旅友は渦とともに流れていった。
オレはそのままキッチンでカレーを作る同僚に「悪りぃ。ちょっと帰らなくちゃ…」「えっ?」
同僚の顔もろくに見ずにビチャビチャの足のまま靴を履いて走るように出て行った。


